Wednesday, July 26, 2006

純粋な言語なんてあるのか?

よくねたにさせてもらう朝鮮日報から。
生活の中に残っている日本語の数々

ええと、ある現象なり概念なりがあって、それをうまい具合に表現する言葉がたまたま外国語だっていうことは良くあることだと思うのですが。
むしろそれまであった自国語の単語よりも、外国語起源の言葉の方がしっくりくることも少なからずあるわけですが。
そういうのも日本語ってことだけで排除ですか。
いやそれ以前に「日本語に由来するものが相当多いことが明らかになった」って、自国語として使ってたなら問題ないじゃんとか思うんだけどな。

たとえば「煙草」「いくら」「襦袢」「かるた」あたりはみんな固有語なんかじゃないし。
漢字語であっても(カタカナ語でなくても)外来語の漢訳語はかなりを占めるし(逆に和製漢語が本家中国に渡ってそのままの意味で使われている例も枚挙にいとまがない)。
いちいち意識するのもばからしいと思うんだが。

そういえば、外来語を極力廃し、出来る限り固有語で表そう(この次点で「完全」であることを諦めているととれるわけだが)ってがんばっているところにアイスランドがあったな。なんでも「サガの言葉をそのままに残そう」とか。
ばからしい。
言葉は移りゆくもの、変わるもの。
いや言葉の乱れは気になるし、まがりなりにもモノを書くことがメシの種にいささかとはいえ関わり合う身として、ある程度は言葉の使い方に関しては保守的でありたいとは思うけれど。
言葉は生き物だ。変化を拒否してしまったら、その言葉は死んでしまう。
博物館に標本が飾られるだけの言葉なんか、私は興味がない。

なんかちょっと内容がずれた。

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